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2010年6月23日編集だより

小岩井忠道

賭け事も、仲間内のマージャンやゴルフの賭けまで糾弾するのもなあ。相撲協会が連日たたかれているニュースに大いに関心を持つ一方、そんな思いを抱く人もいると思われるが、どうだろう。 あれに費やした時間をもし別のことに使っていたら…。などいうことは何事に関しても考えないことにしている。しかし20代後半から30代にかけてのある時期、せっせと競馬場通いをしたことは、われながらよくもまあ、という気はする。

京都支局勤務時代も、住まいに近い四条大宮から京都競馬場まで日曜日よく直行したものだ。競馬開催日に限り、臨時の直通バスが出ていた。「家族で休日どこそこに車で行ったという話を友達からよく聞かされて、妙な気がした。わが家には無縁のことだったので」。まだ小さかった息子に、笑いながら言われたことがある。金をためて車を、などという発想は後年、仕事上持たざるを得なくなるまでなかった。無論、いい年齢になるまで運転したこともなかったから、大けがをしてもおかしくなかったという目に遭ったことも一度や二度ではない。

競馬で負けていないという人がいたら、おそらく1、2回やったらたまたま当たり、以後一切やらなかった、という人くらいではないだろうか。今も同じかどうか知らないが、当時は中央競馬会が馬券の売り上げからまず25%を“必要経費”として召し上げた上で(単勝は確かこの率が低かった)、残りを配当に回す。つまり配当として競馬ファンに還元されるのは“原資“の4分の3だけ。ちなみに事業仕分けでいろいろ追及されていた宝くじとなると、賞金として還元される率はさらに小さい。

とにかく損得だけを考えると馬券も宝くじ同様、ほとんどの人は買えば買うほど損も大きい。冷静に考えるとそうなる。しかし、分かっちゃいるけどやめられない、あるいは最初からそうした競馬の仕組みを知ろうともしない人たちによって、中央競馬会とそれを取り巻くファミリー組織で働く大勢の人々の生活が成り立っているということだ。

ところが間違いなく“もうかる”競馬必勝法というのを昔、何かで読んで笑ったことがある。この方法を多数の人間相手にやるとノミ行為という犯罪になるので、あくまで一人でやらなければならない。馬券購入者と胴元役の二役を演じるのだから。

まず銀行に競馬専用の口座をつくる。馬券は中央競馬会を通さず、この口座に振り込んで購入した形にする。当たったら、中央競馬会発表通りの配当をこの口座から引き出す。無論負けたら一円も引き出せない。これで1年間続けたらどうなるか。仮に平均1日1万円の馬券を買うとする。中央競馬というのは年に100日くらい開催されるから、年に100万円を使うことになるが、1年後の口座はどうなっているか。平均すれば中央競馬会に“必要経費”として有無を言わさずとられる25%分、つまり25万円くらいの残額があるはず。本来ないはずの金が自分のものとして残っているのだから、もうかったのと同じというわけだ。

まあ、この記事を読んで競馬をやめた人は、多分いないだろう。編集者も笑って読み過ごし、一切競馬に関心を失うまでにはそれからなおしばらく時間を要した。やめた理由は、無論負けてばかりだったからだが、もう一つの理由がある。たまたまサラブレッドについてあちこち取材して回ることがあり、競馬の世界で生きる人々の多くに少々あぜんとしたからだ。自分たちの生活が成り立っているのは大勢の馬券購入者のおかげ、という気持ちが恐ろしく希薄に見えた。

23日の毎日新聞朝刊文化面に、大相撲の野球賭博問題を題材にした仏文学者、鹿島茂氏の評論が載っていた。

「大相撲関係者の少なからぬものが野球賭博に『はまった』のは、大相撲という本業が彼らをまったく『熱中』させていないからである。本業が『退屈』だからこそ、賭事に『気晴らし』を求めているのだ」

編集者がある時期、競馬にはまったのも、考えてみれば似たようなものだったのかもしれない。働き盛りだというのに、本業で何をしてよいのかさっぱり分からず、途方に暮れていたために…。

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