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2010年4月1日編集だより

小岩井忠道

元首相、大平正芳氏の名前をこのところ新聞紙面で見ることが多いような気がする。日米密約問題で国民に事実を隠し通すことに悩んでいた、ということを伝える記事に、こんな政治家もいたのか、とホッとした人も多いのではないだろうか。

この日の夕刊では、日経新聞が長女の森田芳子さんに父、大平正芳について語らせていたし、東京新聞は大平氏の生涯を描いた小説「茜色の空」を著したばかりの作家、辻井喬氏に取材した長文の記事を載せている。

日経新聞の記事の中に、大平内閣が民間有識者らによる研究会を設けて「ブレーン政治」の流れをつくったことが書かれている。これは多くの人が知る話だろうが、編集者も思い出がある。

基礎的研究においてトップダウン型の競争的研究資金と、ボトムアップ型の科学研究費のバランスはいかにあるべきか。日本学術会議の問題提起もあって、またこうした議論が活発になりそうな気配がある。しかし、こうした論争というのは30数年前にはまずあり得なかった。

今、科学技術振興機構が実質的な責任を負っている戦略的創造研究推進事業の芽となったのは、創造科学技術推進制度である。科学技術庁(当時)が1981年に立ち上げた。「従来の導入技術依存型の体質からの脱却を図り、自らの力で革新技術の源泉となる科学技術の芽(シーズ)の探索に努める」という狙いで始まった制度だ。制度発足にたどりつくまでは、なかなか大変だった。もはやこれまで、と当事者があきらめかけることもあったらしい。そうならなかった陰には、多くの人たちのさまざまな努力があったと思われる。

「自分がいなければこんな前例のない制度が日の目を見ることはなかった」。そう思っている人は多分相当いるはずだ。財布を握る大蔵省(当時)から、余計なことをしてくれると反発した通産省、文部省(いずれも当時)はもとより、身内(科学技術庁内)の中ですら、なかなか合意が得られなかったというのが実態だった。当時の科学技術庁は、原子力と宇宙開発以外の科学技術振興策など二の次三の次でしかなかったから。

何事も動き出してから力を振るった人たちより、海のものとも山のものとも分からないところから動きをつくり出した人の方が、より功績が大きい。そうみなして制度生みの親とも言うべき二人を挙げるとしたら、新技術開発事業団(現・科学技術振興機構)の千葉玄弥・企画室長(後に理事)と科学技術庁振興局の長柄喜一郎・振興課長(後に理化学研究所副理事長、宇宙開発委員など)ではないだろうか。

「これをやらないと日本の将来はないので、ぜひ実現させたいことがある。ついてはこれをまず読んでみて」。長柄課長からある日、一冊の資料を渡された。それが大平首相の有識者ブレーンのうちの科学者グループがまとめた報告書だった。「科学技術何とかの史的展開」といったタイトルが付いていたと思う。報告書をまとめたブレーンは、石井威望、茅陽一、清水博、村上陽一郎という4人の東京大学教授(当時)だったと記憶する(あるいは吉川弘之氏も入っていたかもしれない)。

専門化、細分化をどんどん進めてきた従来の科学手法ではこれから重要になる課題を解決することはできない、として、新たな科学の方向を提示していたことに感心した。生体の秩序機構に習うホロンあるいはホロニックという考え方が提案されていたので、これの主唱者と言われる清水博氏に何度か取材した。理解できたのはほんのわずかだったが…。

しかし、今になって考えると実に的を射た提言だったと思う。細分化、専門化の流れは、いまだに日本のアカデミズムの中にしぶとく生き続けているようだから。それでは多くの社会的、地球規模の課題が解決できなくなっていることもまた。

「社会のための科学」、「架橋・融合型研究の推進を」などなど、言い方は変わったものの、心ある科学界の指導者たちが声を大にして叫んでいる。これも、大平ブレーンの科学者たちの先見の明を示すところだろうし、そうしたブレーンの声を重視した大平氏の豊かな知性を裏付けるものと言えるのかもしれない。

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