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2009年9月13日編集だより

小岩井忠道

皮肉な結末しか覚えていない「三熊野詣」という三島由紀夫の短編がある。大学時代に図書館で読んだ記憶があると思い調べてみたら、やはり初出は1965年に雑誌「新潮」ということだった。12、13日と熊野三山を初めて訪ねた。なるほど三島がなぜこの地を舞台にあのような小説を書いたか遅まきながら少しは分かるような気がする。 12日正午過ぎ、毎年この時期に一泊旅行する仲間20余人とJR新宮駅で待ち合わせた。すぐ貸し切りバスで瀞峡(どろきょう)に向かったのだが、海岸に近い新宮駅からちょっと北上するとすぐ山である。熊野川の両岸に迫る山はなだらかというより相当、山腹の傾斜がきつい。海岸からすぐ山奥に入ったという感じだ。両側の山の斜面から流れ落ちる滝がいくつも見られ、瀞峡までのバスから見る光景もなかなかのものだ。

どう考えてもこんな眺めは、南海トラフと無縁じゃないだろう。紀伊半島前面、海岸線にほぼ並行して海底に延びる巨大地震の巣が作り出した地形ではないか。最近、当サイトのニュース欄でも紹介した海洋研究開発機構の地球深部探査船「ちきゅう」による掘削調査結果を思い起こす(2009年8月18日ニュース「南海トラフの巨大地震は155万年前から」参照)。

南海トラフの紀伊半島側に存在する海底断層は155万年前から活発に活動し、繰り返し地震・津波を発生してきたというのだ。南海トラフでフィリピン海プレートが大昔から潜り込みを続け、常に押しまくられ、引きずり込まれる形になる陸のプレートがそのストレスに耐えきれなくなるたびに巨大地震という形で一挙にひずみを解消させられる。これでは穏やかな地形が紀伊半島の太平洋に面したところにできるはずもない、ということではないだろうか。

瀞峡の景観を船旅で堪能した後、同夜は湯の峰温泉の立派な宿に泊まる。毒を盛られて3重苦の身に陥った小栗判官を治癒したというつぼ湯(世界遺産にも含まれている)にも浸かった。道路わきにある有料だが掘っ立て小屋のような小さな温泉である。

翌13日、熊野本宮大社から熊野川沿いに戻り、熊野速玉大社に着き、立派な熊野御幸記念碑を見て驚く。後白河上皇33回、後鳥羽上皇29回、待賢門院9回など、400年近い間に遠路、京都から熊野詣でをされた皇族23人の名前と御幸数の合計141回という数字が彫り込まれていた。上皇、天皇の関係は到底覚えられるものではないが、待賢門院の名はなじみがある。何年か前、丸谷才一と山崎正和の対談集(確か「日本史を読む」)を読んで仰天し、その原典である「待賢門院璋子の生涯―椒庭秘抄」(角田文衞著)でも確かめて「これは間違いなさそう」と納得したことを思い出す。待賢門院璋子と養父、白河法王、白河法王の孫で璋子の夫の鳥羽天皇。この3人の関係は何ともすさまじい。

最後に訪ねた熊野三山の一つ、那智大社はすぐそばにある那智の滝を神としている。「日本一の大きな滝です」。バスガイドの説明にすぐ後ろの旅仲間(同じ茨城県出身)から不満そうな声。「華厳の滝が日本一じゃないの」。編集者もてっきりそう思っていた。「近畿あたりの人は利根川から向こうは日本じゃないと思っているのでは」。そう答えたら前の仲間が笑いながら割って入ってきた。こちらは出身も仕事先の本社も大阪市である。「栃木県出身者としては異論ありですか」。茨城と栃木がごっちゃになっている。

後で調べたら、バスガイドの言う通り滝の落差は、栃木県の華厳の滝より、那智の滝の方が上だった。

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