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2008年11月12日編集だより

小岩井忠道

浜離宮朝日ホールで、大萩康司のギターリサイタル(11日)を聴いた。1978年生まれというから若い。クラシックギターの演奏を生で聴く機会はそんなにないが、ギタリストに対しては、何となく気の毒という感じを抱いていた。音量という点で、ピアノやオーケストラの構成楽器に比べてハンデがあるような気がしてならなかったからだ。レコードやCDならギターの音だけ大きく録音すればよいから何とでもなる。しかし、大きなホールでアランフェス交響曲などを協演するときはどうか。オーケストラの音に埋没してしまわないのだろうか、と心配性の人間としては気になる。

今回は、独奏会だからそんな心配もなく聴けたが、あらためて感じたものだ。ギターというのは本来、独奏向きの楽器ではないだろうか。そういえばオーケストラの演奏する曲の中に時々加わるハープというのも、本来、独奏向きの楽器だと思えば分かる。出番が限られているということが。

オーケストラに欠かせない弦楽器はいずれも弓で弾くのがあたり前だ。高低、強弱は変化しても基本的に音は連続している。休み(切れ目)が時々あるという感じだが、指しか使わないギターは違う。会場でもらったしおりにあった「大萩康司のプロフィール」に次のような記述があった。

「『音の詩人』と称される彼が奏でる音色は、柔らかでやさしく優美なのが特徴。楽曲への解釈と演奏は、独特のすぐれたセンスを持ち他のギタリストにはない絶妙な間と繊細な空気間を創り出す」

なるほど、特徴をよく表現していると演奏を思い返しながら思ったものだ。「間」というのは、オーケストラに常連の弦楽器ではあまり言われないことではないだろうか。考えてみると中国にも胡弓という弓を使う弦楽器がある。しかし、琵琶、琴、三味線といった日本に古くからある楽器は、弓ではなく指や撥(ばち)などで弦をはじくものばかりだ。連続的にかき鳴らす奏法もあるが、通常は一つ一つの音が独立していて、バイオリンやチェロが通常出す音とは、だいぶ違う。

こうした地域による弦楽器の違いが生じたのは何か特別の理由でもあるのだろうか。日本人は、とにかく間断なく音を聞かされるより、むしろ音と音との「間」を重視するから。なんて、だれかが解説してくれると、「納得!」となるのだが…。

「繊細な空気間」という表現は、実にユニークだ。空気と空気の間というのは…。と思っていたら、誤植らしいと後で気付く。大萩康司の公式サイトにもプロフィールを紹介するページがあり、そこに同じ文章が載っている。「繊細な空気間」のくだりは「繊細な空気感」となっていた。

演奏の後、音楽の世界に長年密着している女性2人(いつもチケットを提供してくれるありがたい友人)と近くの店に寄る。いい演奏だった、と感想を述べようとしたが、「ビジュアル」がどうこうという話を始めた2人に、なかなか割り込めない。そのうち「ビジュアル」というのが、演奏者の容姿のことを言っているのだと気付く。音楽家も容姿は大切ということなのだろう。

そのうち、最近亡くなった筑紫哲也氏の話になった。氏の音楽好きはだれかに聴いたような気がするが、やはり尋常なものではないと知る。夜のテレビ報道番組のキャスターを引き受けるというのは、ウイークデーの夜は自由な時間を持てなくなるということだ。ところが氏は、番組が始まる前の時間を利用してしばしば演奏会に顔を出していたというのである。ある演奏家に対しては来られないときは必ず花が届いたそうだ。そういえば若い氏が盛岡支局に勤務していた時も、しばしば演奏会を聴くために上京してはとんぼ返りしていた、と前にどこかで読んだような気がする。

12日の毎日新聞朝刊に筑紫氏を悼む藤原章生記者の記事が載っている。肺がんと闘病中だった1年前のインタビューで、氏は命について次のように語っていたそうだ。

「…お墓には何も持って行けないですから。で、残るものは何かというと、どのくらい自分が人生を楽しんだか、それが最後の成績表だと思うんです」

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