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2008年10月15日編集だより

小岩井忠道

市川崑監督唯一の未公開作品という「その木戸を通って」の試写を日本記者クラブで観た。BSアナログ・ハイビジョン放送(BS9)のためのドラマとしてフジテレビが制作、1995年に一度、放送されただけの作品という。93年と94年にベネチア国際映画祭、ロッテルダム国際映画祭にそれぞれ出品されている。

今回、初めて国内で劇場公開されることになった作品もこれら国際映画祭出品作同様、ハイビジョンマスターから35ミリフィルムに変換されたものだ。2月になくなった市川監督同様、既に他界しているフランキー堺、岸田今日子といった名優も出演している。原作はタイトルと同じ題名の山本周五郎の短編小説だ。

映画としての出来栄えは相当なものという印象だが、ストーリーが腑(ふ)に落ちない、というのが見終わっての正直な感想であった。女主人公は記憶を喪失した女性である。登場人物はみな物わかりがよい人物ばかりで、立派な許嫁がいる主人公が、この正体不明の女性と一緒になるのも許される。格式にうるさい江戸時代とはいえ、あり得ないとまでは言えないだろうから、おおむね終始、リアルにつくられている作品に見える。ただ、1個所だけ“理不尽“なのである。

女主人公は、結局、なぜ、主人公の前に現れ、なぜ、突然消えてしまったのか。それも生まれて間もない女の子を置いて。こうしたことが全く分からないまま終わってしまうのである。

そういえば同じ山本周五郎原作の「赤ひげ」(1965年、黒澤明監督)にも、何とも釈然としない部分があった。山崎努と桑野みゆきが演じた挿話で、これも幸せな夫婦生活を送っていた妻、桑野みゆきが突然、夫(山崎努)の前から姿を消してしまう。そのうち、偶然、別の男との間にできた赤ん坊を背負った姿で夫と再会、再び夫の下へ戻るやいなや自殺に近い形(これも相当不自然だが)で死んでしまうという話だ。

どうしてこんなことになったのか、桑野みゆきがそれらしいことをいう場面はあるものの、「なるほど分かった」とは到底言えない。すぐに死ぬくらいなら戻らなければよいではないか、残された赤ん坊やその赤ん坊の父親である連れ合いの立場がまるでないではないか…。どうにもつじつまが合わない。そんな思いをいまだに抱いている。

などとつまらないことにこだわる人間の方が、現実には少数派なのだろう。「赤ひげ」の批評でそんなところに目くじらを立てているのを読んだ覚えはないし、今回の「その木戸を通って」も検索してみたら、市川監督の前に2度、テレビドラマ化されている。最初は、1959年、NET(現テレビ朝日)系列で放送されたもので、尾上松禄、山田五十鈴が主人公夫婦を演じた。2度目は66年、仲代達矢、新珠三千代コンビによりフジテレビで放映されている。こういう作品を好む人が多いという証拠だろう。

いうまでもなくこの話は、市川崑の作品『つる-鶴-』(88年)を思い出させる。木下順二の名作『夕鶴』のもとになった民話『鶴の恩返し』である」。映画のパンフレットに評論家、川本三郎氏が書いている。「ふさは、記憶喪失の女性であると同時に、遠い異界から現れた別の世界の人間のようでもある」とも。

なるほど、「鶴の恩返し」のような民話を全く面白いと感じないし、異界と現世を自在に登場人物が行ったり来たりする能のよさも分からない。そんな人間に、「その木戸を通って」が分かるはずもない、ということか。

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