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2007年8月10日編集だより

小岩井忠道

米国のドキュメンタリー映画作家、マイケル・ムーア監督の最新作「シッコ」の試写を日本記者クラブで観た。大金持ちでもない限り、健康に不安のある人間が米国に住むことはそれこそ命がけか、というのが率直な感想である。製薬会社と保険会社の営利追求、加えて製薬、保険業界の意向が強く働いている米国の医療政策によって、いかに多くの米国人が悲惨な目に遭っているか。まさか、という例も含め、米国の実態が次々に示される。

民主党の有力大統領候補のヒラリー上院議員も、かつて国民健康保険制度の実現に向かって果敢な挑戦をしたのが、つぶされ、いまや製薬メーカーから政治献金を受ける政治家の1人になっている。このような政治家への容赦ない批判も盛り込まれている。

米国には一部貧困層向けの保険制度を除き、国が運営する“国民健康保険”がないため、国民の大半は民間の保険会社に加入するほかないが、6人に1人は無保険。冒頭、まずこうした“医療先進国”米国の特殊な現実が紹介される。しかし、すかさず、この映画は無保険の人たちがいかに悲惨な目に遭っているかを明らかにするのが目的ではない、という趣旨の説明が続く。むしろ民間の保険に入って保険金を払い続けていたにもかかわらず、いざ病気にかかると希望する治療が受けられず、ひどい目に遭っている人間が多いか、を浮き彫りにするのがムーア監督の狙いなのだ。被害者だけでなく、保険会社の利益のために「保険の適用外」、「治療は不必要」といった審査、診断結果を次々に出し続けた医師の話など、仰天するような現実が次々に明らかにされる。

監督自身が、カナダ、英国、フランスに出かけ、米国との違いを事細かに報告し、最後には、キューバの米租借地、グァンタナモ米軍基地にボートで“進入”を試みる。グァンタナモ米軍基地に収容されているイスラム過激派のテロリスト容疑者たちの方が、普通の米国民よりよほどよい医療を施されているではないか。それなら、9・11テロの際、決死の救助作業に当たった元救命員たちにもグァンタナモ米軍基地収容者並みの治療を施したらどうだ。劣悪な環境での救助作業による肺や気管支の後遺症に加え、「保険適用除外」の追い討ちを被っている元救命員たちにまともな治療を! という抗議行動を兼ねた突撃取材である。

無論、これは受け入れられるはずもないが、その代わり、キューバの医療関係者や消防士たちには歓迎され、その上、親切な治療をただ同然の費用で受ける皮肉な様子が報告される。こんな撮影がよくできたものだと感心したが、パンフレットを見て、やはり米政府とはひと悶着あったのだ、と知る。カンヌ映画祭(5月)の特別招待作品として初お披露目の直前に、キューバへの不法入国の容疑をかけられたそうだ。結局、上映中止といった事態にはならず(むしろ米政府の反応が宣伝になった?)、6月の全米公開とともに、ドキュメンタリー史上第2位(1位は同じムーア監督の作品「華氏911」)のオープニング興行収入を挙げたという。

作品の中で衝撃的な場面のひとつに、カリフォルニア州の大病院から強制的に退院させられた高齢の女性患者が、ホームレス施設の前で“捨てられる”シーンがあった。病院がタクシーの運転手にチケットを渡し、そうさせたという。こうしたことはしばしばある、とホームレス施設の人間が嘆いていた。

この場面を見て、深沢七郎の小説、「楢山節考」を思い出す。木下恵介、今村昌平監督によって2度映画化もされている。こちらの方は、母と子の情愛にホロリと来ることはあっても、怒りや寒々しい思いは抱かなかった。それに比べ、この米国のうば捨てシーンには救いがない。

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